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Author:hikari
アレクサンダー・テクニークを教えています。からだとこころにまつわる日々の気づきなどを綴っていきます。

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敏感さと付き合う

小学生のとき、エレクトーンを習っていた。
聴音だけはなぜだか抜群だったけど、練習が嫌いで演奏は苦手な子供だった。
小学1年生の初めての発表会の日のこと。
父に手を引かれて会場の廊下をあるいていると、
「コンドルは飛んで行く」のメロディが聞こえてきた。
その刹那。天井がパックリと割れて、
抜けるような青空高く、コンドルがゆったりと飛んでいた。

私はそれを見た。
確かに見たとしか言いようのない体験だった。
あまりにリアルな体験だったので、
長い間、あの空とコンドルを本当に見たと信じていた。

そんなことを思い出して書いているのは、
去年の秋頃にHSP(Highly Sensitive Person)という考え方を知ってから。
「とても敏感な人」という意味で、
このタイプの人は全人口の20パーセントぐらいいるらしい。

診断テストのチェック項目に答えていくと、9割くらい該当して、
ああ、わたし間違いなくこれだなあと理解すると同時に、
これまでの自分の人生で起きた色んな体験、
印象的だったこと、不思議だったこと、大変だったことなどの記憶が
つながりを持ってストンと腑に落ちるようになったのだった。

それから関連書籍をたくさん読んだ。
今まで「考えすぎ」「気にしすぎ」と言われてきたことも、
否定的に考えなくていいんだと思えるようになって、気持ちが楽になった。
この敏感さは生まれつきの個性、才能なんだと思えるようになったから。

たくさんの情報を受け取ることは、きっといいことでも悪いことでもなくて、
受け取った情報をどういうふうに解釈していくかが、
人生の豊かさや、場合によっては生き難さにつながるんだと思う。

子供の頃からの色々なことを思い出していくうちに、
私は音から映像を連想する傾向があるみたいだと思った。
冒頭に書いたエピソードは、
音から生まれる想像力が良い方向に向かった体験だったけど、
苦手な音に対しても、その能力は活かせるんじゃないかな? と考えた。

例えば、私は自動改札の「ピッ」という直線的な電子音が苦手。
駅によっては、思わず飛び上がるくらい音が大きいことがあり、
その音が耳に突き刺さるように感じて、とてもつらい。

そこで「耳に突き刺さる」というイメージを
別のものに置き換えてみることを思いついた。
例えば、定期を改札機にタッチしたときに、
キラキラ輝くきれいな薄い氷の壁を破って向こうの世界に行く。
そのとき氷が割れる音というのはどうだろうって。

やってみたら、音をからだ全部で受け止められていい気分だった。
今書いてて気づいたけど、耳に刺さると思っていたからこそ、
かえって耳だけで受け止めてしまっていたようだった。

これまで敏感すぎる自分にコンプレックスを持っていたけど、
その感覚をプラスに活かせるようになるといいな。
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おいしいアボカドの見分け方

アボカドが好きで、この夏はよく食べた。
買い物に行くとスーパーの売り場で良さげなのを手に取って、
柔らかすぎず硬すぎず、
ちょうどいい頃合いのものを選んでからレジに向かう。
でも、そうやって慎重に選んでみても、
切ってみると熟しすぎていたりすることも多かった。

あるとき、テレビでおいしいアボカドの
見分け方というのをやっていた。
ヘタのまわりに溝ができているのが熟したサインと聞いて
さっそく売り場でチェックしてみたけど、
私にはあんまりよくわからなかった。

その番組で青果市場のひとがインタビューに答えて、
「食べ頃のアボカドは触ると手に吸いつくような感じ」と
言っていたことを覚えていたので、
そこでいつもは行かない高級スーパーに行って、
1個300円ぐらいするアボカドを手に取ってみた。

な・る・ほ・ど、これか〜。
確かに言葉にするなら「しっとりと手に吸いつく」感じ。
それまで目安にしていたのは柔らかいか固いかだったので、
肌ざわりというのは、なんか目からウロコだった。

そしてそれ以来、いつものスーパーでアボカドを買うとき、
そのときの手触りに一番近いのを選ぶようにしたら、
失敗することがピタリとなくなったのだった。

そんな食いしん坊の執念から導き出した考えは、
学びの早道は一度良いものを体験することかもしれない、ということ。
目で見た情報はもちろん役に立つものだけど、
触覚で覚えたことは、視覚とは違う回路で脳に刻まれて、
確実に自分のものになる、気がする。

片づけ祭り実行中

この間、ずっと念願だった『人生がときめく片づけの魔法』の
こんまり流、片づけ祭りを実行した。

家中の洋服を一か所に集めてみたら、標高1メートル近い小山が出現。
それを一つひとつ手にとって、ときめくかどうかを自分にきいてみた。
その結果、45リットルのゴミ袋8つ分の洋服とサヨナラした。

ときめくかどうか。
それがどういう感覚か、最初はよくわからなかった。
最近買ったお気に入りの服は、迷うことなく取り出せたし、
あまり気に入っていない服も見極めが早かった。
判断に時間がかかったのは、前に気に入っていた洋服たちだった。

ああ〜これ大好きだったんだよね。
あらためて見るとやっぱりかわいいし。
これ、すごくいい生地を使っているんだよね。
そうそう、これ着てたら、すごく似合うってほめられたんだ。
などなど、考え始めると止まらない。

でも、そうやって迷って迷って残すことにした服を
クローゼットに収納してみたけど、なんかモヤモヤするの。
一晩考えてから、思い切ってその服をゴミ袋に入れてみた。

そしてクローゼットに残された服を前にしたとき、
何とも言えずしっくりくる感じがやってきた。

ああ、これが今の私だって。

この片づけ祭りは、
今の自分をよく知るための儀式だったんだ。

思えば、最近私が洋服を買うときは大体なりゆきまかせ。
目的もなくお店の前を通りかかったときに、
一番最初に目に飛び込んできたものを買うことが多い。

店員さんに勧められて、一応色々見るんだけど、
やっぱり選ぶのは、最初に惹かれたものなんだよね。
直感で買った服は大体失敗がない。
逆にこういうの一枚持ってた方がいいから、とか
理屈で買った服は結局あまり出番がない。

片づけ祭りをやってわかったのは、捨てる時も一緒だってこと。
理屈が働きはじめたら、それはもう自分には必要ないっていうサイン。

あの店頭でパッと見て心惹かれる感覚が、
「ときめき」なんだなってことがわかってきた。
その感覚にブレーキをかけることも多いけど、
それに従えるようになったら…
ちょっと想像してみたら、自分じゃないみたいで、
あわてて想像にフタをする。それもよし。

さて、きれいに洋服が収納された引き出しからは、
何とも言えない清々しい気配が立ち昇ってくる。
中は見えなくても、明らかに空気が違うのがわかる。
そう思うと、私たちは目だけじゃなくて、
全身で情報を受け取って生きているんだって実感が湧いてくる。

さあ、次は本の整理だ!

自分自身を観察する

一日の仕事を終えて、電車に乗って家に帰る途中でのこと。
持っていた本をキリのいいところまで読み終えたところで、
自分の降りる駅まであと2つ。
その間、特にすることもないので、私は自分を観察することにした。

自分の観察、これは私が時々する遊び。
「それが遊びなの?」って、変に思われるかもしれないけど、
やってみると結構面白いのよ。
どうするのかというと、ただ自分の体に注意を向けて、

 あ、いま右脚に力が入った
 吊革を結構強く握りしめているな
 重心がかかとにいってるな
 いかんいかん、今度は前すぎた
 お、今おなかの力が抜けてきたぞ
 すると同時に膝もゆるんできた、とか

次々にやってくる変化に気づき続けるだけ。
まあ、途中で飽きて、いつのまにかやめちゃうことも多いんだけどね。

そうこうしているうちに駅に着いた。
電車を降りようと出口に向かったら、
近くに大きなリュックを背負った人がいて、通路をふさいでいた。
私は「そこ通りたいんだけど」と思って、
その人を手でどけようと・・・・・・したことに、その瞬間、気がついた。

手を使うんじゃなくて、言葉があるじゃん。

私が「すみません」って声をかけたら、
その人は体を少しはすにして、私が通れるようにしてくれた。

電車を降りた後、思わずじわっと涙ぐむ私。
そうだよね・・・
自分が相手にしてほしいことは、
ちゃんとこうやって言葉で言えばいいんだよね。

そんなことで泣きそうになったのは、
自分のこの行動パターンが、電車の中だけじゃないって思ったから。
無言で「わかってよ」みたいなオーラを出したり、
「普通、気づくよね」と相手のせいにしたり。
そうじゃなくて、言葉で伝えればいいんだ、私が。
それだけのことなんだ。

本当によくある日常のひとコマで、そんなことに気がついたのは、
電車を降りる前の2駅分、自分を観察する時間を持ったから。

こういう時間をもっと作ってみよう、自分の平和のために。

計画を立てる

最近、忙しさのなかで、失敗をすることが続いてしまった。
どれも、落ち着いてやればしないような失敗ばかり。
そこで、自分のために時間をとって、
その時、一体自分に何が起きていたのか、
ゆっくり考えてみることにした。

失敗したときの状況を振り返って見えてきたのは、
「何時までにこれを仕上げておかなくちゃ」
「何時までにあそこに着いていなくちゃ」みたいに
時間をすごく気にしていた自分だった。

そのとき、頭の中はなりたい結果のイメージしかなく、
私は一足飛びにそのイメージに向かっていった。
つまり、その途中にするべきことについては、ほとんど何も考えていなかった。

あああ~。

計画を立てるって、
「いつまでに何をする」を決めることだと漠然とおもっていたけど、
そうじゃなくて、
「すること」をひたすら具体的にしていくことだったんだね。

そのとき、心の中で何かが「ドサッ」と音を立てて落っこちた。
それは、人生の数々の失敗の入った袋がいっぱいになって、
その重みでとうとう落下した、そんな音だった。
腑に落ちるって、こういうことを言うんだなあ。

私の人生、ちょっとだけ前進。
ほんのちょっとだけだけどね。
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