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Author:hikari
アレクサンダー・テクニークを教えています。からだとこころにまつわる日々の気づきなどを綴っていきます。

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ワークショップ開催のお知らせ2017

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。(^-^)

昨年は長年の目標だったアレクサンダーテクニーク教師の資格を取得し、
私にとって記念すべき年となりました。

1月、2月、3月と、初めての方向けのワークショップを開催いたします。
内容は連続してはいませんので、1回だけのご参加でも大丈夫です。

ブログ内のメールフォームからお申込みください。
ご参加お待ちしております!




はじめてのアレクサンダーテクニーク

アレクサンダーテクニークは、自分自身の動きのクセに気づき、
それをやめていく方法を学ぶ、心と体のレッスンです。
困ったことがあるときに、何かを「する」のではなく、
やりすぎていることを「やめる」という、引き算のアプローチです。
肩こりや腰痛、疲れやすさを感じているなら、
からだの使い方を見直すことが根本的な解決になるかもしれません。
レッスンでは、ふだんのシンプルな動作を、
時間をかけて、ていねいに探っていきたいと思います。

●日時とテーマ:
 ①1月21日(土) 「立つ・座る」 *1月は満席となりました!
 ②2月25日(土) 「下を向く」 
 ③3月25日(土) 「手を使う」
 いずれも18:30~20:30
  ★内容は連続していませんので、1回だけの参加でも大丈夫です
●場所:「食とセラピー ていねいに、」(JR西荻窪 徒歩7分)
●参加費:3,000円  定員:4名

片づけ祭り実行中

この間、ずっと念願だった『人生がときめく片づけの魔法』の
こんまり流、片づけ祭りを実行した。

家中の洋服を一か所に集めてみたら、標高1メートル近い小山が出現。
それを一つひとつ手にとって、ときめくかどうかを自分にきいてみた。
その結果、45リットルのゴミ袋8つ分の洋服とサヨナラした。

ときめくかどうか。
それがどういう感覚か、最初はよくわからなかった。
最近買ったお気に入りの服は、迷うことなく取り出せたし、
あまり気に入っていない服も見極めが早かった。
判断に時間がかかったのは、前に気に入っていた洋服たちだった。

ああ〜これ大好きだったんだよね。
あらためて見るとやっぱりかわいいし。
これ、すごくいい生地を使っているんだよね。
そうそう、これ着てたら、すごく似合うってほめられたんだ。
などなど、考え始めると止まらない。

でも、そうやって迷って迷って残すことにした服を
クローゼットに収納してみたけど、なんかモヤモヤするの。
一晩考えてから、思い切ってその服をゴミ袋に入れてみた。

そしてクローゼットに残された服を前にしたとき、
何とも言えずしっくりくる感じがやってきた。

ああ、これが今の私だって。

この片づけ祭りは、
今の自分をよく知るための儀式だったんだ。

思えば、最近私が洋服を買うときは大体なりゆきまかせ。
目的もなくお店の前を通りかかったときに、
一番最初に目に飛び込んできたものを買うことが多い。

店員さんに勧められて、一応色々見るんだけど、
やっぱり選ぶのは、最初に惹かれたものなんだよね。
直感で買った服は大体失敗がない。
逆にこういうの一枚持ってた方がいいから、とか
理屈で買った服は結局あまり出番がない。

片づけ祭りをやってわかったのは、捨てる時も一緒だってこと。
理屈が働きはじめたら、それはもう自分には必要ないっていうサイン。

あの店頭でパッと見て心惹かれる感覚が、
「ときめき」なんだなってことがわかってきた。
その感覚にブレーキをかけることも多いけど、
それに従えるようになったら…
ちょっと想像してみたら、自分じゃないみたいで、
あわてて想像にフタをする。それもよし。

さて、きれいに洋服が収納された引き出しからは、
何とも言えない清々しい気配が立ち昇ってくる。
中は見えなくても、明らかに空気が違うのがわかる。
そう思うと、私たちは目だけじゃなくて、
全身で情報を受け取って生きているんだって実感が湧いてくる。

さあ、次は本の整理だ!

楽しむだけでよかった

アレクサンダーテクニークではレッスンの最中、
からだが楽になって、その結果いいことがたくさん起こる。

さっきまであった痛みが消えてしまったり、
呼吸が楽になったり、
視界が明るく広くなったり、
関節の可動域が広がったり。

そういうとき、人はついつい分析したくなるもの。
だって自分に何が起きているのか知りたいし、
またその素敵な体験を再現したいから。

でも感覚は分析しようとした途端に消えてしまうし、
過去の素敵なシーンを再現しようとすると、
理想に合わせて頑張りすぎて苦しくなったり、
過去と今を比べてしまって悲しくなったり。

分かっちゃいるけどやめられない。
それが長年の課題だった私が、最近腑に落ちたことは、

楽しいときは、ただ楽しむだけでいいってこと。

楽になった呼吸も、明るくなった視界も、
痛みのない体も、ただ今それを楽しむだけ。

感じている以上に感じようとしなくてもいいし、
その楽さ、楽しさが終わってしまっても、
ああ、楽しかった!と思って次に行けばいい。

きっと、それが自由っていうことね。

違いが見えるとき

今日、会社でのこと。
隣の席の人が首をかしげながらつぶやいた。
「先方が依頼していた画像を2つ送ってくれたんだけど…
これってどう見ても同じものですよね?」

どれどれ、と隣のパソコン画面を覗き込む私。
2つの画像をぱっぱと切り替えて見せてもらったところ、
違いがすぐに目に飛び込んできた。

「右の子の表情が違うよ。口元がかすかに微笑んでるじゃない?」
「うーん、私には同じにしか見えない…」

これはアレクサンダーテクニークでやってきた、
観察のトレーニングの成果かもしれない。
レッスンでは生徒のしているかすかな動きや、
大きな動きになる前の、動きの方向性を観察している。

そのおかげで、今ではテレビのクイズ番組でやっている、
ちょっとずつ絵が変わるやつの違いを見つけるのもわりと得意。
(↑自慢)

なーんて偉そうに言ってるけど、
私も最初の2年くらいは、人の動きが全然見えなかった。
なんか違うのは分かっても、それが何かが分からなかったり。

違いって、探しに行くと見えなかったりするもの。
「よく見よう」という願いは、多くの場合、
細かく見ようとするときの動きにつながっているから、
部分にフォーカスするような目の使い方になってしまう。

でも、違いが見えるためには、
動いたものと動いていないものが
全体として同時に見えている必要がある。

例えば、動いている物体だって、
それだけ見ていると動いてるかどうかわからない。
私たちは普段、地球が動いていることが感じられないけど、
それを知ることができるのは、周りの天体との位置関係があるから。

つまり、違いとは周りとの比較があって初めて認識できるもの。
だから、違いを見つけたいときは、
パーツに分けて細かく見るのではなく、
まわりを含めた全体を見る必要があると思っている。

私が教わったアレクサンダーテクニークのレッスンでは
「見に行くのではなく、視界に入るのを許す」っていう言い方をする。
人の視界は、フォーカスする必要があるとき以外は
広く全体を見るようにできているから、
自分自身で視野を狭くしていることに気づいてあげるだけでいい。

冒頭の2つの画像の違いが見えたときも、
まさに向こうから目に飛び込んできたという言い方がぴったりだった。

そうは思っていても、習慣はなかなか強力なもの。
実は時々、新聞の「間違い探し」で練習しているんだけど…
「見つけよう」という欲が出ると、もうその瞬間に私の目は部分に走る。

…ふと我にかえると、
遊ぶための間違い探しを前に
そんなストイックな練習をしている自分が
なんだかおかしいんですけど!

1人を変えるために、特別なことはなにもしていない

この間自分が教えたレッスンで
「下を向く」が上手に教えられなかった。

それ以来、どうやって下を向いたらいいのか、
自分なりに試行錯誤しながら、ずっと考え続けていた。

なんとなくわかってきたことは、
首の動かし方それ自体を変えるよりも、
立ち方や座り方での全身のバランスの取り方が変わると、
首の動きが自ずと変わるということだった。

脚や胴体に無理がないと、
その上にある頭と首は楽に動くのだった。

やっぱり、部分ではなく全体を見るってことなんだね!
って納得。

そんなことに気づいたとき、
記憶の中にある、ひとつの出来事が思い出された。

ちょうど1年前の秋のこと。
福島に住む80代の伯母が末期癌で入院していた。

戦争中に青春時代を過ごした伯母は
生涯独身だったので、子供や孫がいなかった。
その分、甥や姪である私たちをとても可愛がった人だった。

そんな伯母の最後の日々に、
必ず誰かがそばにいられるようにと、
私たち兄弟はシフトを組んで毎日東京から通うことにした。

入院している伯母は、はっきりとした意識はあるものの、
目も見えず耳もほとんど聞こえず、
声をだすこともできない状態で、
手も脚も、体じゅうが痛みで硬直していた。

伯母の体を少しでも楽にしてあげたいと、
私は一生懸命にアレクサンダーテクニークを使った。
頭の位置をわずかに調整したり、腕の緊張にはたらきかけて
呼吸が楽になるようにしたり。
でも、痛みそのものがなくなるわけではないし、
その緊張は痛みに耐えるために必要なものにも思えた。

ある週末、病院に家族全員がそろった。
私たちは伯母のベッドを囲んで、
次の週のシフトを決める話し合いをしていた。

「俺、その日はダメ、大事な会議があるから」
「うわー俺もダメ。ここは休めない」
「じゃあこの日は私がでるから、代わりにこの日出てよ」
「しょうがないなあ、なんとかするよ」

こんな交渉の末、シフトが決まった。
サラリーマンの日常丸出しの、和やかな雰囲気だった。

ふと伯母を見ると、さっきまで苦しそうだった体が、
明らかに、とても楽そうにゆるんでいた。
まるで「あー安心した」とでもいうように。

会話の内容は聞こえていないはずなのに。
私たちの和やかな談笑に、体が反応をしていたのだ。
肌感覚で、その場の空気がわかるのだろう。

1人を変えるために、特別なことはなにもしていない。
それを起こしたのは、私たち全体の変化だった。

それからほどなくして、伯母は天国へ召された。
その日決めたシフトは途中で終わった。

ちょっとしんみりするエピソードだけど、
全体性を思うとき、私はこの日の光景を思い出す。
とても大切な思い出だ。
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